ぽらーのカフェ
夢のはじまり・・・生協ものがたり
vol.8 現在のカタチへ
 戦後不況の中で次々に姿を消した生協。
しかし、その灯は途絶えることはありませんでした。


 
昭和26年には各地で生協の婦人部同士の連合が発足しはじめ、その後の有害商品追放運動、平和運動、酪農民との提携などの社会運動につながっていきます。

 中でも、ビキニ環礁での水爆実験(昭和21年)による影響は大きなものでした。太平洋のマグロに放射能汚染の恐れが指摘されると、たちまち魚が売れなくなり、大損害を被った魚屋さんと主婦たちによる
原水爆禁止要求の運動が起きたのです。
 また、酪農家にとっても放射能汚染の問題は人ごとではなく、牛乳の売れ行きに影響が出てしまいました。
そこで酪農家たちは
消費者との直結をうたい、昭和30年には10円牛乳を実現。結果的にはこれが生協の信用を高め、組合員数の拡大にもつながったのでした。

 昭和25年ころからは、それまでの「消費組合」や「購買組合」から「生活協同組合」へと名称も変わってきます。
「ゆりかごから墓場まで」の理想のもと、
総合的に暮らしを守る生協へと変化していったのです。
 
各地の生協は医療、浴場(銭湯)、保育園、理美容院など、生活に不可欠な施設を併設するようになりました。
住宅の紹介・斡旋やバラック住宅の建設、さらには団地づくりまで、よりよい生活を実現するための方策のひとつとして、生協は貴重な存在のひとつだったのです。
◆◆◆◆◆
  時は昭和30年代に入り、経済白書は「もはや戦後ではない」と高らかに宣言、神武景気を迎えます。冷蔵庫、洗濯機、テレビ(白黒)が三種の神器と呼ばれ、急速に普及。
28年にはじまった民放テレビが新しい楽しみをもたらしたのです。
33年ころからは郊外に
高層住宅ができはじめ、35年には国民所得倍増計画が打ち出されました
   (歴史の教科書みたい?)。

 いよいよ時代は高度成長に突入です。
 生協は果たしてどんな運命をたどるのでしょう?

                    自然派くらぶ生協 機関紙 「ぽらーの」 より
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