ぽらーのカフェ
夢のはじまり・・・生協ものがたり
vol.10
かくれた偉人の物語
 
 ぽらーのカフェ、少し難しい部分もあったけど、読んでいただけましたか? 
  
 さて今回はちょっと趣向を変えて、一人の偉人を紹介します。
現在の生協の生みの親であり、精神的支柱でもある賀川豊彦です。その生き様は激しく、哀しく、ひとつの思いに貫かれていました。


 明治21年に妾の子として生まれた賀川は4歳で両親に死別します。本家に引き取られた彼は「妾の子」と呼ばれ、やがて父親が破産すると伯父に引き取られるという流浪の幼児期を送りました。
 成人した賀川は貧しい人々、虐げられた人々を友と感じ、神戸の貧民窟に身を投じました。しかし、そこで見たものは自分の孤独など吹き飛んでしまうほどの悲惨さであり、絶望だったのです。

 当時は弱者を保護する法律は全くありませんでした。賀川は個人的にあらゆる奉仕活動をし、自分に残された最後の一枚の衣までも脱いで与えました。
 しかし同時に、個人的奉仕の限界を感じ、社会そのものの在り方に疑問を抱くようになっていったのです。賀川の胸中にはこの頃から、
互助的なシステムの構想が浮かぶようになりました。

 神学校の特待生だった賀川はアメリカに留学します。どうしたら貧民窟を無くすことができるのか、あの絶望の人々を救うことができるのか、寝食を忘れてアメリカの社会システムを研究したのです。

 あふれる抱負を携えて帰国した賀川は再び貧しい人々とともに生活を始めましたが、時代は彼を貧民窟に留めておくことを許しませんでした。当時の劣悪な労働環境を改善するための指導者となって寸暇もないほどの活動をし、また一方では、
1919年、大阪で日本生活協同組合の前身「購買組合共益社」をスタートさせたのです。

 当時はひとたび不景気になると物価がみるみる高騰して人々の暮らしを圧迫し、娘の身売りや親子心中などが相次ぐような世の中でした。「こんなちっぽけな店で何ができるのか」と言われながらも、賀川は七転八倒しながら店を続けました。それどころか、
次は神戸に、2年後には灘に購買組合(現在の灘神戸生協)を設立したのです。

 「どうしたら貧民窟を無くすことができるのか、絶望の人々を救うことができるのか」……
・・・賀川を貫いていた思いは難しい理念ではなく、ただ一つの「愛」だったのです。

 そして、その愛は時を経て普通選挙の実現や健康保険制度などの形となりました。現在の福祉国家の第一の功労者と言っても過言ではない賀川豊彦。日本のガンジーと呼ばれたその人は、ノーベル平和賞の有力候補に挙がりながら、1960年、帰らぬ人となったのです。
◆◆◆◆◆
 賀川豊彦の愛によって始められた生協。
今も、そしてこれからも、愛をたずさえていけるでしょうか?
                            
                          自然派くらぶ生協 機関紙 「ぽらーの」 より


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